忘己利他はもうこりた
- 2009/11/20
- 19:59
先日のNHKの「ようこそ先輩」(タイトルは違うかも)の番組で、瀬戸内寂聴さんが、生徒たちに仏教の話をしていて「忘己利他(もうこ、りた)ですよ。もう懲りた(もう、こりた)じゃないですよ(笑)」と話していた。
「南 英世の VIRTUAL政治・経済学教室」(2007.2.13)では、
http://sakura.canvas.ne.jp/spr/h-minami/essay-moukorita.htm
忘己利他(もうこ りた)をこう説明していた。
忘己利他とは、自分を忘れて他人のためにつくすことをいう。「己を忘れて他を利するは、慈悲の究極なり」と最澄は述べているが、世界宗教といわれるもののなかで、この精神を否定するものはない。ヨーロッパのノブレス・オブリージュも同じ精神である。
人間同士がうまくやってゆくための秘訣は相手を尊敬し、相手を第一に考えることである。すなわち、忘己利他の精神である。しかし、実はそれが一番難しい。自分がかわいいからどうしても、自分を第一に考え、自分が得をしよう、 自分が楽をしようという気持ちが先に立つ。相手を気づかう気持ちは二の次三の次になる。
しかし、考えてみれば自分一人がうれしいというのは、そこで完結してお終いである。それに対して、相手が喜ぶのを見てこちらがうれしくなるというのは大人の喜びであるともいえる。
桶に水を張り、ぽちゃんと小石を投げ込むと波紋が同心円状に広がる。その輪はやがて縁にあたり、また真ん中に戻ってくる。相手を喜ばせてあげると、やがて自分のもとに喜びが戻ってくる。
ただし、他人に利益を与えるからといって、見返りを期待する気持ちは持ってはならない。「情けは人のためならず」という言葉もあるが、これには(密かに)見返りを期待する心情が感じられ、忘己利他ほどには精神が高尚ではない気がする。忘己利他はあくまでも見返りを期待しないのだ。根本のところで忘己利他の心があるか、ないか。そのことが、その人の品格を決めるといってよい。---(後略)
---ということだそうだが。
エンパスである私は、通常が「忘己利他」だったので、それこそ「もう懲りた」状態(笑)。
人間には(ものごとは)、かならず最低でも2種類のものがある。
男と女。表と裏。陰と陽。内向性と外向性。プラスとマイナス---
よく、お説教する人たちを見ていると、そのことを忘れているか知らないで話しているなと思うことがあるけど。
世の中には、自分勝手で他人のせいにばかりする人がいるから「ありがとう。ごめんなさい。許してください。感謝します」とか言わされる。
一方で、なんでも自分のせいだと思い込む人もいる。となりや家族に「他人のせいにする人」がいると、つい自分を主張できなくて「私が悪いんです」と言ってしまうタイプ。こっちの人には「ごめんなさい。許してください」は禁句。ますます罪悪感の深みにはまってしまうので。
医者に言わせると、何でも他人のせいにするタイプは、心臓病とか成人病になりやすく、
何でも自分のせいにするタイプは、アレルギーや免疫性の疾患になりやすいのだそうだ。
これだけ違いがあるのに、さらに「複合タイプ」もあったりするので、一般論の本では対応しきれないのが現状。
たとえば、一方は、褒めると甘えてしまってかえって育たないタイプ。
一方は、褒めてあげないとエネルギーが出ないタイプ。
先に病むのは、自分のせいにするタイプ。
あとから大騒ぎするのが、他人のせいにするタイプ。などなど---
エンパスとそうでない人。という分け方もできる。
エンパスは日本人だと5人に一人(アメリカでは20人に一人)というので、少なくとも10人の人がいないと仲間に会えないということですね。
私は、1才8ヶ月から大人の顔色をうかがっていないと生き延びられなかったので、エンパシーを最大限に使っていたために、自分と他人の区別がつきにくかった。
だから、生きるために「誰かのためをする」ことになっていたので、「忘己利他」は=自分を見失って他人の利益のために行動する処世術、のように感じる(笑)。
それは、もう懲りた。相手を基準にしただけの人生なんて、冗談じゃない(笑)。
今はスピリチュアルな生活なので、究極は「相手のためになることをして、それが相手に気づかれなくても喜びである」という(神さまの)境地を目指すことになったけど。
「忘己利他」の見本は、母親の子どもへの愛だと思う。
一般の母親は、子どもが何か返してくれるとは期待せずに世話をするので。
とはいえ、子どもの笑顔が見たいのは確かだけれど--それが責任だと思っているからすごい。
時には、子どもに憎まれてでも悪役にされても、子どもの将来の幸せのために叱ることもしなきゃならない。だから、親の愛は神の愛に近いんですね。
でも、宗教で言われているのは、たいてい「自分以外の人のためにも良いことをしなさい(それが、めぐりめぐって自分への「得=徳」にもなる)ということらしい。
だから、それはいつも「自分が、自分が」と行動して「都合の悪いことは他人のせいにする」タイプの人用なのだ。
自分と相手の区別がつきにくいエンパスは、言われなくてもやっている(やってしまっている)ことだから、当たりまえすぎて「何言ってるんだろう? もしかして、これ以上自分の人生を犠牲にしないとならないんだろうか?」と恐ろしく感じるくらいだ(笑)。
「忘己利他」の使い方。
まずは、結局自分にも幸せが返ってくるのだから、まず他人のためになることを行動してみよう。という挑戦に使うのがいいかもしれない。(この場合、自分の思い込みでなく、あきらかに相手の利益となることが前提で)
ところで---既存の制限のかかった宗教でなく、スピリチュアルな視点から見ると「忘己利他」は「悟り」と同じで、「ある境地」なので、目標にしてはならないものだ。
つまり、イエスキリストのように----
覚醒して波動が上がり--宇宙の中心の波動になると、すべては母なる自分の中から生まれ、自分はすべての中から生まれたという感覚なので、他人と自分の区別がつきにくくなる。
一人の利益が全体の利益につながることが解るから、ついその役割りを担ってしまう(十字架にかかる)ことができる。--という境地だそうだ。
だから、気をつけないとならないのは、「忘己利他」を目指してはならないということ。「忘己利他」になろうとすると、かえってちぐはぐになるので。
「忘己利他」は、何かをしていて陥る「境地」だから。「自分を忘れよう」とすると、逆に「自分自身の存在を守るための本能」がエゴとなって出やすくなってしまい、そこで葛藤して「煩悩」になる。
---ン? そういえば、仏教っていつも「理想の境地」を「目標」として教えてしまうせいで、葛藤して煩悩になってないか?
私は超合理主義だから、目的が果たせない方法は採用しないけれど。宗教の修行者さんたちは、ヒマつぶしに葛藤するのが好きなのかも?
もし、「忘己利他」になりたかったら---
まずは、頼まれたことをして、相手に喜ばれること。
次に、自分のためにもなると思って、誰かのために努力すること。
そこから、自分のためになるかはどうでも、相手の幸せのためになるなと解ったらやってみること。(その時の「嬉しい感情」がご褒美)
さらに、自分が憎まれてでも、相手のためになることならやってみる。
---という手順が修行っぽくてよいかも。
自分は苦しくてつらいけど、相手のためになることだからやる、というのはドMの楽しみかただから、趣味じゃない人は別にやらなくても…。
というのも、「自分を犠牲にするやりかた」では、結果として傲慢になったり・憎しみ・恨みを生むので、「調和」の世界じゃなくなるので。
それなら、かならず「相手を幸せに。自分はもっと幸せに」を意図してほしい。
究極の理想は、
相手も「自分という宇宙」の一部なのだから幸せになってほしい、という感覚が持てれば---それが「聖書」の中の「人がその友のために死ぬことは、もっとも尊いことである」になる。
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忘己利他(もうこ りた)をこう説明していた。
忘己利他とは、自分を忘れて他人のためにつくすことをいう。「己を忘れて他を利するは、慈悲の究極なり」と最澄は述べているが、世界宗教といわれるもののなかで、この精神を否定するものはない。ヨーロッパのノブレス・オブリージュも同じ精神である。
人間同士がうまくやってゆくための秘訣は相手を尊敬し、相手を第一に考えることである。すなわち、忘己利他の精神である。しかし、実はそれが一番難しい。自分がかわいいからどうしても、自分を第一に考え、自分が得をしよう、 自分が楽をしようという気持ちが先に立つ。相手を気づかう気持ちは二の次三の次になる。
しかし、考えてみれば自分一人がうれしいというのは、そこで完結してお終いである。それに対して、相手が喜ぶのを見てこちらがうれしくなるというのは大人の喜びであるともいえる。
桶に水を張り、ぽちゃんと小石を投げ込むと波紋が同心円状に広がる。その輪はやがて縁にあたり、また真ん中に戻ってくる。相手を喜ばせてあげると、やがて自分のもとに喜びが戻ってくる。
ただし、他人に利益を与えるからといって、見返りを期待する気持ちは持ってはならない。「情けは人のためならず」という言葉もあるが、これには(密かに)見返りを期待する心情が感じられ、忘己利他ほどには精神が高尚ではない気がする。忘己利他はあくまでも見返りを期待しないのだ。根本のところで忘己利他の心があるか、ないか。そのことが、その人の品格を決めるといってよい。---(後略)
---ということだそうだが。
エンパスである私は、通常が「忘己利他」だったので、それこそ「もう懲りた」状態(笑)。
人間には(ものごとは)、かならず最低でも2種類のものがある。
男と女。表と裏。陰と陽。内向性と外向性。プラスとマイナス---
よく、お説教する人たちを見ていると、そのことを忘れているか知らないで話しているなと思うことがあるけど。
世の中には、自分勝手で他人のせいにばかりする人がいるから「ありがとう。ごめんなさい。許してください。感謝します」とか言わされる。
一方で、なんでも自分のせいだと思い込む人もいる。となりや家族に「他人のせいにする人」がいると、つい自分を主張できなくて「私が悪いんです」と言ってしまうタイプ。こっちの人には「ごめんなさい。許してください」は禁句。ますます罪悪感の深みにはまってしまうので。
医者に言わせると、何でも他人のせいにするタイプは、心臓病とか成人病になりやすく、
何でも自分のせいにするタイプは、アレルギーや免疫性の疾患になりやすいのだそうだ。
これだけ違いがあるのに、さらに「複合タイプ」もあったりするので、一般論の本では対応しきれないのが現状。
たとえば、一方は、褒めると甘えてしまってかえって育たないタイプ。
一方は、褒めてあげないとエネルギーが出ないタイプ。
先に病むのは、自分のせいにするタイプ。
あとから大騒ぎするのが、他人のせいにするタイプ。などなど---
エンパスとそうでない人。という分け方もできる。
エンパスは日本人だと5人に一人(アメリカでは20人に一人)というので、少なくとも10人の人がいないと仲間に会えないということですね。
私は、1才8ヶ月から大人の顔色をうかがっていないと生き延びられなかったので、エンパシーを最大限に使っていたために、自分と他人の区別がつきにくかった。
だから、生きるために「誰かのためをする」ことになっていたので、「忘己利他」は=自分を見失って他人の利益のために行動する処世術、のように感じる(笑)。
それは、もう懲りた。相手を基準にしただけの人生なんて、冗談じゃない(笑)。
今はスピリチュアルな生活なので、究極は「相手のためになることをして、それが相手に気づかれなくても喜びである」という(神さまの)境地を目指すことになったけど。
「忘己利他」の見本は、母親の子どもへの愛だと思う。
一般の母親は、子どもが何か返してくれるとは期待せずに世話をするので。
とはいえ、子どもの笑顔が見たいのは確かだけれど--それが責任だと思っているからすごい。
時には、子どもに憎まれてでも悪役にされても、子どもの将来の幸せのために叱ることもしなきゃならない。だから、親の愛は神の愛に近いんですね。
でも、宗教で言われているのは、たいてい「自分以外の人のためにも良いことをしなさい(それが、めぐりめぐって自分への「得=徳」にもなる)ということらしい。
だから、それはいつも「自分が、自分が」と行動して「都合の悪いことは他人のせいにする」タイプの人用なのだ。
自分と相手の区別がつきにくいエンパスは、言われなくてもやっている(やってしまっている)ことだから、当たりまえすぎて「何言ってるんだろう? もしかして、これ以上自分の人生を犠牲にしないとならないんだろうか?」と恐ろしく感じるくらいだ(笑)。
「忘己利他」の使い方。
まずは、結局自分にも幸せが返ってくるのだから、まず他人のためになることを行動してみよう。という挑戦に使うのがいいかもしれない。(この場合、自分の思い込みでなく、あきらかに相手の利益となることが前提で)
ところで---既存の制限のかかった宗教でなく、スピリチュアルな視点から見ると「忘己利他」は「悟り」と同じで、「ある境地」なので、目標にしてはならないものだ。
つまり、イエスキリストのように----
覚醒して波動が上がり--宇宙の中心の波動になると、すべては母なる自分の中から生まれ、自分はすべての中から生まれたという感覚なので、他人と自分の区別がつきにくくなる。
一人の利益が全体の利益につながることが解るから、ついその役割りを担ってしまう(十字架にかかる)ことができる。--という境地だそうだ。
だから、気をつけないとならないのは、「忘己利他」を目指してはならないということ。「忘己利他」になろうとすると、かえってちぐはぐになるので。
「忘己利他」は、何かをしていて陥る「境地」だから。「自分を忘れよう」とすると、逆に「自分自身の存在を守るための本能」がエゴとなって出やすくなってしまい、そこで葛藤して「煩悩」になる。
---ン? そういえば、仏教っていつも「理想の境地」を「目標」として教えてしまうせいで、葛藤して煩悩になってないか?
私は超合理主義だから、目的が果たせない方法は採用しないけれど。宗教の修行者さんたちは、ヒマつぶしに葛藤するのが好きなのかも?
もし、「忘己利他」になりたかったら---
まずは、頼まれたことをして、相手に喜ばれること。
次に、自分のためにもなると思って、誰かのために努力すること。
そこから、自分のためになるかはどうでも、相手の幸せのためになるなと解ったらやってみること。(その時の「嬉しい感情」がご褒美)
さらに、自分が憎まれてでも、相手のためになることならやってみる。
---という手順が修行っぽくてよいかも。
自分は苦しくてつらいけど、相手のためになることだからやる、というのはドMの楽しみかただから、趣味じゃない人は別にやらなくても…。
というのも、「自分を犠牲にするやりかた」では、結果として傲慢になったり・憎しみ・恨みを生むので、「調和」の世界じゃなくなるので。
それなら、かならず「相手を幸せに。自分はもっと幸せに」を意図してほしい。
究極の理想は、
相手も「自分という宇宙」の一部なのだから幸せになってほしい、という感覚が持てれば---それが「聖書」の中の「人がその友のために死ぬことは、もっとも尊いことである」になる。
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