障害者のための支援について
- 2011/03/11
- 04:56
あらためて、情報をまとめました。
とりあえず、ここでは「しょうがいしゃ」を障害者という漢字表記にさせていただきますね。
障害児を「チャレンジド」と呼ぶのも、魂レベルで理にかなっていると思います。
ちなみに、私がスピリチュアルになってから受け取ったメッセージでは---
この場合の「障害者」の定義は、幸せに豊かに生活しようとすると、障害(物理的な壁または精神的な壁)に当たって行動できなくなる範囲が、平均の人(一般値)より多い人。
平均的な一般人としてあるべき身体の部位や知的活動の範囲が、不足しているか平均値と違うために、それが障害となって幸せに過ごせていない人。---
という感じでした。
私は、親が障害児支援をしていたり、社会派のマンガ家からスピリチュアルになったので、社会問題にも関心があった時期があって、いろいろ本を読んだりしましたが--
今のスタンスはスピリチュアルとして、すべての魂はいろいろなことにチャレンジするために地球にやって来ていて、魂の約束でそれぞれの役割りがあるので、それをできるだけ全うできるようにサポートすることが自分のスピリチュアルワーク(ライトワーク=光の仕事)だと思っています。
そして、バリアフリーな社会(世界)を作ることは、いつでも必要だと思ってます。
昔20年前までは、障害者というと、目に見える形の「身体障害者」ばかりが目立っていました。
その後、染色体異常や予防注射など薬害の副作用やその他の化学的作用による、知的障害にも注目がいくようになりました。その当時は、身体障害と知的障害をあわせ持つケースが見落とされていたため、あらたに心身障害児という分野がはじまったと聞いています。
30年以上前には、障害児が生まれるのは何かの呪い(バチが当たった)かのような見方や、母親の不摂生があったからだろうと言われていました。
そういうケースも一部はあったかもしれませんが、それ以外の原因があっても、責任は母親一人に押しつけられることが多かったそうです。
予防注射の副作用で障害が起きた子どもさんの母親は、「貴女に運がなかったからそうなったんだろう」とまで言われたそうです。
障害を持つ子どもが家庭に生まれると、介護・介助をすることが大変なので、やっかいだ面倒だと存在を否定されるわけです。
日本の憲法では、最低限の生活は保障されていますから、税金で保護されますが、
目に見えての「生産性」が無いということで、「働かざる者食うべからず」といった考えを持つ人々からは、否定されて来たわけです。
目に見えて手で触れる生産性を重視する世界観や、障害物の多い社会では、障害者をやっかいな存在だと思ってしまうのは、理解できます。
道を歩いていて、先を急ぎたい時に前に車イスがあって進めない--となれば、邪魔だと思うのもニンゲンです。これは、価値観が偏っている中で生活していると、起こりやすいことだと思います。
車イスの人やお年寄り(幼児も)のスピードは、自分とは違うのだから、それを見越して動かなければ--と学校で習っていれば、家庭で教えられていれば、当たり前のことにイライラすることはないはずです。
先日、ニュージーランドの大地震で、なんとか救出されるも片足を切断せざるをえなかった被災者に、インタビュアーが「スポーツはできなくなるわけですが…」と言ったとして、問題になっていましたね。
インタビュアーにいたわりの心があれば、そんな質問は出なかったはずですが。少なくとも、もっと知識があれば言葉の中に「今までやっていたやり方でのスポーツはできなくなる…」という配慮ができたはず。障害者のスポーツはたくさんあって、日本はパラリンピックでの金メダル率が高いのですから(オリンピックより高いかも?)。
どうもインタビュアーの言葉の使い方の中に、
「片足がないなんて、これからの人生大変でしょう。不便な生活になりますよ。親も大変だろうし。あの時、死んだ方がマシだったのでは?」という潜在意識があったと感じました。
じつは、この考えは昔ながらの障害者差別意識ですよね。
事故のニュースで「一命をとりとめましたが、半身不随」とか「事故で失明」などと聞くと、考えなしに「うわー大変。生活が苦労だろうから、事故でそのまま死んでいた方が幸せだったんじゃない?」と言ってしまう人。
でも、もっとイメージを広げて欲しいのですが、
もしもっとバリアフリーな世界で、目の見えない人でも安全に移動できる手段(乗り物やサポート)があったら、見えないことは一つの残念なことではあっても、人生を否定するほどの不幸にはならない。
事故で片足になって、そのためにそれ以前より足が遅くなるかもしれなくても(場合によっては速くなる人もいるでしょうが)、やりたいスポーツができて、行きたい所に行けて、人と楽しく過ごせるなら「障害」にはならないかもしれない。
---つまり、バリアフリーが大事なのはそういうことなのだそうです。
わたし達一般(平均値)のニンゲンの価値観にバリア(壁)があり、限界を作っているために、豊かな発想や幸せな世界がイメージできないだけなんだそうです。
宇宙には無限のエネルギーがあって、無限の可能性があって、それはニンゲンの脳も同じで無限の可能性がある。
障害には、身体的・知的・人格的・学習能力的などいろいろあり、また先天的か後天的かなどもありますが、
社会をバリアフリーにすることの大事さは、万人に関わって来ることなので。
今、自分に障害がなくても、いつ事故や病気でだれかのサポートを必要とするかわかりませんし、ニンゲンは最後には年老いて身体的能力が低下するわけですから、バリアフリー社会は自分自身のためでもあります。
以前、どこかの都知事ISが、重度の心身障害児を見て、おもわず「彼らに人権はあるのか?」と言った話を聞きました。
それについては、先日の豊かさ交流会でさよ子さんからのシェアメッセージがあります(内容の概略ですが)。
ある女性がいて、他人の面倒を見ることが大好きで、人のためにさんざん尽くしていたら--ある時病気になって何もできなくなってしまい、皆から面倒を見てもらう立場になった。それで落ち込んでいたら、メッセージをもらった。「あなたは、これまで人にたくさん与えて来たのだから、こんどは受け取る番ですよ。いま受け取らない場合は、次の人生に生まれ変った時、最初から受け取るだけの人生をするために、障害児として生まれることになります」とのこと。
---だから、障害児って基本、波動が高いんですね。
たとえ障害児として生まれても、日木流奈(ひきるな)君のように母親がチャネラーなら、メッセージを発信することもできるわけですから。(私はチャネラーになる前には信じられなかったのですが、自分がチャネリングできるようになったら、あのお母さんの反応の速さや仕草の意味がわかりました)
スピリチュアル(高次元とのやりとり)はいつでも万能ですね。
ちなみに私は、障害があってもできることを活かして、仕事(役割・生きがい)をもってもらい、収入や豊かさにつなげて欲しいので、スピリチュアル学校を作りたいのは、そういうサポートをしたいからなのでした。
昔は、「目の見えない人にはマッサージ」といった画一的な支援ばかりでしたが、パソコンやインターネットの時代なので、もっと工夫することができるはずだし。たとえば、ボタン(スイッチ)を押すことしかできない人には、ボタンを押すことで収入につながる仕事を設定する…というような。
能力を「経済」につなげることができれば、社会参加になるので。「保護」という名目で能力を奪うのではなく、本来の役割を見いだすことが大事だと思っています。
~*~*~ 愛と感謝をこめて ~*~*~
お読みいただきありがとうございます。掲載記事は、さらに詳しい内容を書籍・CD・DVD等で頒布する予定です♪
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障害児を「チャレンジド」と呼ぶのも、魂レベルで理にかなっていると思います。
ちなみに、私がスピリチュアルになってから受け取ったメッセージでは---
この場合の「障害者」の定義は、幸せに豊かに生活しようとすると、障害(物理的な壁または精神的な壁)に当たって行動できなくなる範囲が、平均の人(一般値)より多い人。
平均的な一般人としてあるべき身体の部位や知的活動の範囲が、不足しているか平均値と違うために、それが障害となって幸せに過ごせていない人。---
という感じでした。
私は、親が障害児支援をしていたり、社会派のマンガ家からスピリチュアルになったので、社会問題にも関心があった時期があって、いろいろ本を読んだりしましたが--
今のスタンスはスピリチュアルとして、すべての魂はいろいろなことにチャレンジするために地球にやって来ていて、魂の約束でそれぞれの役割りがあるので、それをできるだけ全うできるようにサポートすることが自分のスピリチュアルワーク(ライトワーク=光の仕事)だと思っています。
そして、バリアフリーな社会(世界)を作ることは、いつでも必要だと思ってます。
昔20年前までは、障害者というと、目に見える形の「身体障害者」ばかりが目立っていました。
その後、染色体異常や予防注射など薬害の副作用やその他の化学的作用による、知的障害にも注目がいくようになりました。その当時は、身体障害と知的障害をあわせ持つケースが見落とされていたため、あらたに心身障害児という分野がはじまったと聞いています。
30年以上前には、障害児が生まれるのは何かの呪い(バチが当たった)かのような見方や、母親の不摂生があったからだろうと言われていました。
そういうケースも一部はあったかもしれませんが、それ以外の原因があっても、責任は母親一人に押しつけられることが多かったそうです。
予防注射の副作用で障害が起きた子どもさんの母親は、「貴女に運がなかったからそうなったんだろう」とまで言われたそうです。
障害を持つ子どもが家庭に生まれると、介護・介助をすることが大変なので、やっかいだ面倒だと存在を否定されるわけです。
日本の憲法では、最低限の生活は保障されていますから、税金で保護されますが、
目に見えての「生産性」が無いということで、「働かざる者食うべからず」といった考えを持つ人々からは、否定されて来たわけです。
目に見えて手で触れる生産性を重視する世界観や、障害物の多い社会では、障害者をやっかいな存在だと思ってしまうのは、理解できます。
道を歩いていて、先を急ぎたい時に前に車イスがあって進めない--となれば、邪魔だと思うのもニンゲンです。これは、価値観が偏っている中で生活していると、起こりやすいことだと思います。
車イスの人やお年寄り(幼児も)のスピードは、自分とは違うのだから、それを見越して動かなければ--と学校で習っていれば、家庭で教えられていれば、当たり前のことにイライラすることはないはずです。
先日、ニュージーランドの大地震で、なんとか救出されるも片足を切断せざるをえなかった被災者に、インタビュアーが「スポーツはできなくなるわけですが…」と言ったとして、問題になっていましたね。
インタビュアーにいたわりの心があれば、そんな質問は出なかったはずですが。少なくとも、もっと知識があれば言葉の中に「今までやっていたやり方でのスポーツはできなくなる…」という配慮ができたはず。障害者のスポーツはたくさんあって、日本はパラリンピックでの金メダル率が高いのですから(オリンピックより高いかも?)。
どうもインタビュアーの言葉の使い方の中に、
「片足がないなんて、これからの人生大変でしょう。不便な生活になりますよ。親も大変だろうし。あの時、死んだ方がマシだったのでは?」という潜在意識があったと感じました。
じつは、この考えは昔ながらの障害者差別意識ですよね。
事故のニュースで「一命をとりとめましたが、半身不随」とか「事故で失明」などと聞くと、考えなしに「うわー大変。生活が苦労だろうから、事故でそのまま死んでいた方が幸せだったんじゃない?」と言ってしまう人。
でも、もっとイメージを広げて欲しいのですが、
もしもっとバリアフリーな世界で、目の見えない人でも安全に移動できる手段(乗り物やサポート)があったら、見えないことは一つの残念なことではあっても、人生を否定するほどの不幸にはならない。
事故で片足になって、そのためにそれ以前より足が遅くなるかもしれなくても(場合によっては速くなる人もいるでしょうが)、やりたいスポーツができて、行きたい所に行けて、人と楽しく過ごせるなら「障害」にはならないかもしれない。
---つまり、バリアフリーが大事なのはそういうことなのだそうです。
わたし達一般(平均値)のニンゲンの価値観にバリア(壁)があり、限界を作っているために、豊かな発想や幸せな世界がイメージできないだけなんだそうです。
宇宙には無限のエネルギーがあって、無限の可能性があって、それはニンゲンの脳も同じで無限の可能性がある。
障害には、身体的・知的・人格的・学習能力的などいろいろあり、また先天的か後天的かなどもありますが、
社会をバリアフリーにすることの大事さは、万人に関わって来ることなので。
今、自分に障害がなくても、いつ事故や病気でだれかのサポートを必要とするかわかりませんし、ニンゲンは最後には年老いて身体的能力が低下するわけですから、バリアフリー社会は自分自身のためでもあります。
以前、どこかの都知事ISが、重度の心身障害児を見て、おもわず「彼らに人権はあるのか?」と言った話を聞きました。
それについては、先日の豊かさ交流会でさよ子さんからのシェアメッセージがあります(内容の概略ですが)。
ある女性がいて、他人の面倒を見ることが大好きで、人のためにさんざん尽くしていたら--ある時病気になって何もできなくなってしまい、皆から面倒を見てもらう立場になった。それで落ち込んでいたら、メッセージをもらった。「あなたは、これまで人にたくさん与えて来たのだから、こんどは受け取る番ですよ。いま受け取らない場合は、次の人生に生まれ変った時、最初から受け取るだけの人生をするために、障害児として生まれることになります」とのこと。
---だから、障害児って基本、波動が高いんですね。
たとえ障害児として生まれても、日木流奈(ひきるな)君のように母親がチャネラーなら、メッセージを発信することもできるわけですから。(私はチャネラーになる前には信じられなかったのですが、自分がチャネリングできるようになったら、あのお母さんの反応の速さや仕草の意味がわかりました)
スピリチュアル(高次元とのやりとり)はいつでも万能ですね。
ちなみに私は、障害があってもできることを活かして、仕事(役割・生きがい)をもってもらい、収入や豊かさにつなげて欲しいので、スピリチュアル学校を作りたいのは、そういうサポートをしたいからなのでした。
昔は、「目の見えない人にはマッサージ」といった画一的な支援ばかりでしたが、パソコンやインターネットの時代なので、もっと工夫することができるはずだし。たとえば、ボタン(スイッチ)を押すことしかできない人には、ボタンを押すことで収入につながる仕事を設定する…というような。
能力を「経済」につなげることができれば、社会参加になるので。「保護」という名目で能力を奪うのではなく、本来の役割を見いだすことが大事だと思っています。
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