いじめと称する加害事件についてのコメント/追記
- 2012/07/20
- 22:54
過去に、エネルギーの奪い合いの問題で、いじめについて多少記事を書きましたが、最近の(平成20年代の)「いじめ」と称する事件の内容が、異常になって来たため、あらためてコメントを書きます---
どちらにしても、加害者も被害者も出さないようにすることが、大人の務め。
モラルハラスメントやパワーハラスメントは、魂に目覚めていない人間同士のエネルギーの奪い合いで、条件さえ整ってしまえば、日常的に起きていること。
それが、ひとたび「学校」という閉鎖社会になると、一般社会で「犯罪」とされることが、犯罪ではなくなるらしい。
姉が子育て時代の話では、「学校では、通常の犯罪行為が犯罪じゃなくなるんだよ。
人権侵害されてても、治外法権。暴行・恐喝・名誉毀損・器物損壊・窃盗・集団リンチ・強制わいせつ・(教師から女生徒への)性的暴行とかががあっても、ほとんどが隠蔽されるでしょ。
それで校長に訴えたお母さんは、校長から『その問題教師を辞めさせても、もっと変な教師が送られて来るだけですけど?』って言われたんだって。
子どもは、学校で人質になっているとも言えるから、恐いんだよね」--とのこと。
本来ならば、安全に守られて、教育を受ける権利を持つはずの、日本の子どもたちが。
憲法で保証されているはずのことが、実行されていない。
--ということは、大人たちの問題なのだ。
PTAとは言うが、本来は、一人ひとりの親が、問題意識を持たなければならないし、もし親に何かしらの困難がある子どもがいた場合、その子の健全な成長をサポートすることも含まれている。
今の学校教育では、不可能か、かなり大変なことであっても、大前提を崩してはならない。
ましてや、大人が子供たちの世界に「差別意識」などを持込んではならない。
学校に警察が介入しないのは、まだ社会や法律に対応しきれない子供たちがいる学校という場に「指導力のある大人」がいて、指導によって犯罪を未然に防ぐ可能性があるからだ。
指導力のある人間がいない世界では、人間は、野生動物と同じになる。ましてや子供たちならなおさら。
チリで、炭坑の地下に生き埋めになった作業員33名は、はじめ、もの凄い争いをしていたという。それが、外界と連絡が取れて、助かるかもしれないと思った時から、言動が紳士になっている。
外からの目が届かない所では、何が起きても不思議ではない。その人の生まれ育ちや、本性が明かされるのだ。
ニュースでは、
滋賀県大津市で2011年10月、市立中学2年の男子生徒(当時13才)が飛び降り自殺した問題で、市教委が自殺直後に全校生徒(859人)を対象に行ったアンケートで男子生徒が「暴力」「いじめ」を受けていたとする回答が、伝聞も含めて計227件あったことが7日、分かった。--とのこと。
これは、あきらかに教育者・教育現場の怠慢ということになる。
特殊な地域であり、人間関係や地域の民族的な軋轢などもあったようだが、それらが露呈する(オープンになる)流れだったと言える。
子どもたちの教育の場に、大人の権力闘争が入ってしまっているのだ。
大人の側から、正しい指導ができなければ、子どもたちは正しい生き方ができない。
大人の側から、愛や思いやりを奨励しなければ、子どもたちは実践できない。
自由には責任がともなう。自分の言動には責任を負わなければならない、という宇宙のルールを実践しなければならない。
弱い立場のものを、どうやって幸せにするか--それは、人間にとっての永遠のテーマとも言える。
というのも、本来の生き物は「自然淘汰」で、状況に対応できないものが滅びることになっているが、人間は、理性と知性で、それを逆転させようとしているからだ。
宇宙は無重力だから、上下関係がない。人間の意識も、宇宙と繋がると上下関係ではなくなる。そのレベルを目指し続けているのが人類といえる。
魂に目覚めたら、人種差別や、障害者差別など、幻想に過ぎないとわかるはずなので。
「いじめ」という呼び方は、本来「弱いもの虐め」の略だと思うのだが、ここでは、校内恐喝・暴行事件を、現代の呼び方としてあえて「いじめ」と呼んで書くことにする。
いじめは、いじめる側に大きな問題があるわけだけだが、
じつは、いじめられる側にも理由がある、と言える。ここで、きちんとしておきたいのだが、いじめられる側に「非がある」と言っているのではなく、「理由(条件)がある」ということ。
いじめに遭う子どものほとんどが、攻撃力が弱かったり、闘争心がなかったり
優しかったり、性善説であったり
最初、いじめだと気づいていなかったり
他人との境界線が曖昧だったり
自分を守るために戦うことを、悪いことだと思っていたり
立場が弱かったり、ハンデがあったり(それを庇ってくれる大人がいない)、
逃げ道が少なかったり
効果的な相談相手がいなかったり、悪知恵がなかったり、情報が少なく、
時には、親から無視や虐待を受けていたり(虐めに慣れてしまっている)
エネルギーが下がっていたり
両親が揃っていない。両親が不仲で、子どもとの対話が少ない--などのどれか、
「人権を奪われないための戦い」に不利な条件が揃っていることが多いのだ。
ただし、最初から被害者意識のある子どもや、差別意識(人種差別・障害者差別ほか)がある場合は、因果応報のカルマで、引き寄せが起きているので、意識を変える気づきということになる。
他人との「境界線」を守ることができない場合も、人権侵害につながる。この場合の「境界線」とは、人間にとって最初の境界線は「皮膚」だそうだ。
だから、本人の承諾無しに、勝手に頭を撫でたり、腕を掴んだりしたら、境界線の侵略になる。
大人でも、人間関係は難しい時があるわけで、ましてや子どもたちも、さまざまな環境で育って来て、習ったこともない人間同士の付き合いを、試行錯誤している現状。
その時に、直接の被害が及ぶことがない限り、誰かを攻撃するというのは、間違った行動だと知っておく必要がある。
たとえ、相手がストレスのはけ口にちょうどいいと思っても、
たとえ相手が、まったくの無抵抗でも、
何かしら、気にくわない部分があっても、
不正をしたことがあっても(その場合は、正当な抗議をすればよいので)
たとえ、相手が「いじめてください」と土下座して頼んで来たとしても(笑)、
まだ子どものうちは、自分の裁量で責任の取れる範囲がせまいので、相手をいじめてはならない、ということを教育しなければならない。
ましてや、一方的に自分達が有利だという場合に、相手を攻撃するのは、野生動物のすることであって、人間としての誇りはない。
「直接の被害が及ぶことがない限り」と書いているのは、自分が殺されそうになっている時に、相手に対して攻撃的になるのは、生理反応だからということであって、暴力を奨励しているわけではない。
戦わなければならない時は、
・命にかかわることだと判っているとき
・心身の傷害にかかわること
・人としての誇りを失いそうなとき --である。
この時は、被害をもたらす相手に対して、抗議することが必要になる。その抗議の内容は、暴力ではなく、法律に訴えたり、協力者を募って話し合いをしたり、なるべくエレガントな方法が望ましいが。
自分が被害を受けているのに、それを抗議しないままにすると、宇宙に対して「私はないがしろにされて良いです。犠牲になります」宣言となり、それがオーダーされて、現実化が引き寄せられるので、注意してほしい。
一般的ないじめは、
エネルギーを奪うことに長けている生徒が、3人くらいつるむと、エネルギーを与えやすい(優しい)生徒を選んで攻撃する形になる。
クラスメイトの中には、愛と調和を求めて、問題を訴える生徒もいるが、そこで大人(教師)が適切な対応をしないと、いじめはさらに陰湿になっていく。
子どものいじめや仲間はずれは、大人が対応しないと、エスカレートする。なぜなら、大人が見て見ぬふりをすると、「許可された」というお墨付きをもらったことになるからだ。
大人になってしまうと、暴力を止めるには、もう警察権力が必要になる。
学生は、いじめ対応のエキスパートではないのだ。生徒が問題提議したら、大人が対処しないとならない。
いじめの原因となっていることは何か?を見出さなければならない。
子どものいじめに親が介入して相手を叱っても、悪化することが多いのは、いじめっ子は自分の親に気まずい思いをすると、さらにそのストレスをぶつけてくるから。学校という現場では親の手が届かないため。
親が出張って行く時には、教師・学校を巻き込んだ最終手段となる。
それまでは、公正な立場でいるはずの、教師の対応が大事になるが、いじめに適切な対応をしたという教師を、私は1人しか知らない。
そして、いじめる側には、強いストレスがあり、それを解消しなければ、いじめる相手を変えるだけになってしまう、ということも知っておくべき。
いじめを行っている人間(生徒)は、いつもストレスを抱えている。我慢している。本当は、自分は無力だと思っている。自己肯定感が低いのだ。それを隠して優等生を装っている場合も多い。
もともと頑張り屋さんで優等生で、そのぶんプレッシャーが強くなり、ストレスを溜めて弱い者にぶつけるという図式も、多く報告されている。
しかし、いずれにしても「ノルアドレナリン神経回路」優位で、怒りと恐れを抱えている。
優等生を装っていれば、褒めてもらえるし、自分が無力だという思いを誤摩化せるし、優等生の隠れ蓑で教師から疑われずにすむ。それが、さらなるストレスを生むという悪循環だとは気づかない。
一方で、いつも自分の思いどおりにしてもらい、甘やかされて来た子どもも、今度は思いどおりにならない時に、ストレスを感じて、八つ当たりをする。思いどおりにならないことを、エレガントに乗り越える工夫や、忍耐力がないということ。
「幼児的依存心」という。幼児的だから、残虐。
やりたいことができて、一見自由に見えるが、自分の力量以上のことを求めるので、要求が通らないときの挫折感が大きい。周囲への感謝がないので、じつは波動が低い状態。
忍耐力のない人間ほど、惨めなものはない。
大津の首謀者は、クラスメイトの死に対して、哀悼を示すどころか、自己正当化をしていたらしいので、それが本当なら、やはり罪悪感があるということだ。
それを汲んでやって、償わせることが、これからの人生を正しくするのだが、そんな大人は彼らの近くにはいなかったらしい。
子どものやんちゃは、度が過ぎた時には、すみやかに制止してやらないと、どんどん悪化していくのに。
あと、男の子は、自分の父親に褒めてもらいたい、認めてもらいたいという気持ちがあるので、それが叶えられない場合、問題行動を起こして「父親を呼んでいる」という。(「男の子ってどうしてこうなの?」参照)
心理学の研究で、「刑務官と囚人」という役割り分担をした実験の話は、けっこう知られていると思っていたが、情報というものは、いつでも再放送・再版しないと、すたれるようだ。
あの実験では、
人は、ストレスがあって道徳心がないと、圧倒的優位に立った時に、残虐非道なことを平気でできる。ということが実証されていた。
相手が無抵抗だと思うと、日頃のストレスを大いに発散して、残虐な行為ができるという。
つまり、人は、自分に返って来なければ、何でもできる--ということでもある。
これが、魂に目覚めている人間だと、あとは引き寄せオーダーで、調和した関係を構築できるので、残虐さを発揮する必要もない。
ドメスティック・バイオレンスなどでは、
暴行を加えた夫が、我に返ったとき、後悔して妻にやさしくするという。
そうすると、妻は「この人は、本当は優しい人なんだ。ストレスがあると、暴力を振るってしまうだけなんだ」と思うという。
幻想を破って申し訳ないが、ストレスがかかっている時に出るのが「本性」である。
じつは、時おり見せる後悔の念や優しさは、愛などではなく、保身だ。
「妻にも人権があるのに、申し訳ない」などと思っているのではなく、
「ああ、こんなことをしてしまって、恥ずかしい」だの「こんなことを知られたら困る」「妻に逃げられたら困る」だの「自分は何てやつなんだ」だの--
すべて「自分中心」の考え方。
「おれは頑張っているのだから、それを怒らせた奴が悪い。だから暴力をふるわれて当然だ。抵抗しないのは、自分が悪いと思っているからだ」などなど、都合の良いことを考えている。
ストレスに弱いのは本当で、それは脳の「ノルアドレナリン神経回路」ばかりが使われている人生だったからだ。本人が本気で反省しているなら、100日以上のサポートで「ドーパミン神経回路」を鍛えることができれば、その人本来の良い面を発揮して、幸せな人生に切り替えることはできる。
DVをしてしまうパートナーをサポートするなら、そこまでの対応をしないとならない。脳を「ドーパミン神経回路」に切り替える努力をせずに、「この人も子供の頃に苦労してきているんだから、許さなきゃ」と放置しておくと、それは「私はノルアドレナリン神経回路の人から不当に扱われます」オーダーとなって、またそれが引き寄せられるのだ。
私は、DVや、いじめに遭った人の対応をした時の体験から書いている。
法律に詳しいわけではないので、あくまでもカウンセラーとしての立場である。
いじめや虐待は、第三者が指摘しないと、当人たちには気がつかない場合が多い。
子どものいじめは、経験の少ない子ども同士だけの対処では、かなり難しいと知っておくべきだ。
悪意のないいたづらのつもりが、いじめや迫害につながることもある。大人の指摘や、適切な対処や、アドバイスがあることで、悪化を未然に防げるものなのだ。
むしろ…大人の中にある、差別意識が、子どもの世界で拡大されているともいえる。
ちなみに、大津の事件では、
「情報を隠蔽し続けた現場」によって、社会全体に、子どもたちが、いつ同じ目に遭わされるのか解らないという恐怖が走った。過去にも事件があったというから、今後も同じような虐待事件があった時、大人たちは、まったく対応しないだろうという予測がついてしまった。
それが、放射性廃棄物の処理問題と電力会社の無責任問題ともシンクロしていた。
おなじ、土壌。
それで、社会的現象が起きたといえる。
一部の人間は、昔から「あいつが犯罪者だ」とわかると「どんな目に遭わせても良い」と思っている場合もある。特に、「犯罪者なのに、反省していない」という時、「自分が正義だ」という立場になると、「相手を徹底的に責める」というのを続けているようだが、それは上記にあるように、心理学実験で証明された「圧倒的優位に立つ者が、抵抗できない者を虐待する」心理となる。
目的が、犯罪を防ぐことや、償わせること(等価交換)や、社会への警告の一環というのではなく、自己満足の場合は、要注意である。
どちらにしても、自分が同じ立場になった時に同じ対応をされても、笑顔で納得がいく場合は、自己責任として許可されているので、ここではとやかくは言わない。
重要なのは、いつでも「正確な情報」である。判断は、それぞれの立場による主観なので。
相手の人権を侵害したら、自分の人権も侵害されるのが「等価交換」のルールのはず。
ところが、相手の人権を奪った場合、奪った人には2倍の人権があるという矛盾(錯覚)が生じるらしい。今、そのバランス調整が起きている、そんな時代になっているようだ。
新聞で確認したところ、大津事件では、加害者の関係で間違った情報が流れ、それによって、何の落ち度もない一般人が加害者と間違われて、被害を被っているとのこと。それが、そのまま「いじめの構造」なのだと、気づくべきである。
--過ぎたるは、及ばざるがごとし--
正確な情報を掴めずに、踊らされるとしたら、それが本当の望みなのだろうか?
自分で確認をしない怠慢さは、いじめを放置した教師や教育関係者と同じ立場といえる。
自分の言動の責任は負わなければならないのだから、その加害者的言動は、オーダーされて、自らに戻ってくることになる。
実体験のある人が、過去を思い出して意見を述べることもあるが、ほとんどが一方的な視点であることが多く、場合によっては自分には無関係だからと、興味本位で話題にする人間もいる。
実際に効果的な行動のできない人は、口出しだけでもして、それによって社会参加したつもりになる、ということもある。
いじめといっても、
相手がこちらと仲良くしたいのにできなくて、攻撃的になっているなら、
誤解を解いて仲良くなるか
そんなやつは知らん、と他に自分の仲間をつくるか
仲の良いふりをして、知恵を使って逃れるか --などの方法がある。
相手が、嫉妬心でこちらを攻撃してきているときは、
敵意はないよという態度を取るか
相手の弱点を探し尽くして、攻撃準備をすると、それだけで、たいていは手を出さなくなる。
最近は、
たんなるストレスのはけ口で攻撃して来ている場合が多くなったらしい。
どちらにしても、逃れられない状況なら、立ち向かうしかないのだが…
・大人が対応できていない
・本人に戦う意志がない --という状況の時は、難しい。
引き寄せを知っていれば、どんどんオーダーすれば良いだけだが、学校では引き寄せの物理法則は教えていないのだから。
人間関係のヒントを言うと--
褒めてもらいたい・認めてもらいたい人は多く、
教師は、生徒の良いところを探して本気で褒める能力が必要だ--
目覚めていないと、難しいかもしれないが…
--と、記事を書いたら、いじめに遭ったことがあるという体験談のメールが来たが、冷静になれないなら、その波動がもともとの「自分は恐怖を味わう人生だ」という引き寄せになっている。
弱い者いじめに遭った人がもともと卑怯者だったのか、虐待にあったから卑怯者になったのか。どちらにしても、卑怯者でいていいということにはならないだろう。これは、自己責任の問題で、自分の人生を不幸なままにするのか?幸せにするのか?自分で選ぶべきことだからだ。
自分が幸せになる資格がないとか自信がないとか思うなら、それはセルフイメージ(自己肯定感)の問題なので、いじめ以前に親子関係を正した方が良い、ということになる。
私は、戦う意識のある人にしか対応できないから、具体的にどうしたいのかを質問されないと、応えられない。
仕返しがしたいなら、具体的に動くべきだし。
こういう記事を書いて、波動の低い人を呼び込みそうなら、記事は今後削除する。
一見、差別の被害にあって、可哀想でしょう?と見える人が、実は他のことでだれかを差別していて、差別意識の塊だったりする。それは、引き寄せが起きて、自分自身が鏡を呼び込んでいる。
被害者意識が強すぎる場合は、「夜と霧」症候群といえる。
つまり、「自分は酷い目に遭ったことがあるから、誰かを犠牲にしてもいいんだ」という考え。これこそが、いじめる側、加害者側の人間の意識。エネルギー泥棒だ。
被害者から、加害者になるのは自由選択だけれど、私個人の意見を言わせてもらうと、とにかく「最後は幸せになりなさい」ということだ。
不幸なままで過ごすのは、加害者の勝利になってしまうから。それが魂の本当の望みかどうか、確認してほしい。
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私は、24時間対応ではないので、いじめや事件に遭って自殺しようとしている人に対応しきれない場合があるため、安易に「すぐにうちに連絡してね」というコメントはしません。
もし、そんなことを言ったら、実際にいじめに遭っている子どもたちだけでなく、ひやかしやエネルギー欲しさに、被害者を装った連絡が来るのが目に見えているので。
でも、事件になるときは、それぞれに個別の対応が必要だということは知っています。
だから、総まとめの「いじめられている君たちへ」メッセージも書きません。
あくまでも、分析と経験・体験の報告になります。ネットに流せば、少しでも人目につくので、情報を必要としている人に届くように…と意図しています。
いじめや虐待に対応したい場合の過去の参考記事--
「いじめられる人は、自分への愛が足りない」不動明王からのメッセージ
http://leoriel.blog105.fc2.com/blog-entry-427.html
どちらにしても、加害者も被害者も出さないようにすることが、大人の務め。
モラルハラスメントやパワーハラスメントは、魂に目覚めていない人間同士のエネルギーの奪い合いで、条件さえ整ってしまえば、日常的に起きていること。
それが、ひとたび「学校」という閉鎖社会になると、一般社会で「犯罪」とされることが、犯罪ではなくなるらしい。
姉が子育て時代の話では、「学校では、通常の犯罪行為が犯罪じゃなくなるんだよ。
人権侵害されてても、治外法権。暴行・恐喝・名誉毀損・器物損壊・窃盗・集団リンチ・強制わいせつ・(教師から女生徒への)性的暴行とかががあっても、ほとんどが隠蔽されるでしょ。
それで校長に訴えたお母さんは、校長から『その問題教師を辞めさせても、もっと変な教師が送られて来るだけですけど?』って言われたんだって。
子どもは、学校で人質になっているとも言えるから、恐いんだよね」--とのこと。
本来ならば、安全に守られて、教育を受ける権利を持つはずの、日本の子どもたちが。
憲法で保証されているはずのことが、実行されていない。
--ということは、大人たちの問題なのだ。
PTAとは言うが、本来は、一人ひとりの親が、問題意識を持たなければならないし、もし親に何かしらの困難がある子どもがいた場合、その子の健全な成長をサポートすることも含まれている。
今の学校教育では、不可能か、かなり大変なことであっても、大前提を崩してはならない。
ましてや、大人が子供たちの世界に「差別意識」などを持込んではならない。
学校に警察が介入しないのは、まだ社会や法律に対応しきれない子供たちがいる学校という場に「指導力のある大人」がいて、指導によって犯罪を未然に防ぐ可能性があるからだ。
指導力のある人間がいない世界では、人間は、野生動物と同じになる。ましてや子供たちならなおさら。
チリで、炭坑の地下に生き埋めになった作業員33名は、はじめ、もの凄い争いをしていたという。それが、外界と連絡が取れて、助かるかもしれないと思った時から、言動が紳士になっている。
外からの目が届かない所では、何が起きても不思議ではない。その人の生まれ育ちや、本性が明かされるのだ。
ニュースでは、
滋賀県大津市で2011年10月、市立中学2年の男子生徒(当時13才)が飛び降り自殺した問題で、市教委が自殺直後に全校生徒(859人)を対象に行ったアンケートで男子生徒が「暴力」「いじめ」を受けていたとする回答が、伝聞も含めて計227件あったことが7日、分かった。--とのこと。
これは、あきらかに教育者・教育現場の怠慢ということになる。
特殊な地域であり、人間関係や地域の民族的な軋轢などもあったようだが、それらが露呈する(オープンになる)流れだったと言える。
子どもたちの教育の場に、大人の権力闘争が入ってしまっているのだ。
大人の側から、正しい指導ができなければ、子どもたちは正しい生き方ができない。
大人の側から、愛や思いやりを奨励しなければ、子どもたちは実践できない。
自由には責任がともなう。自分の言動には責任を負わなければならない、という宇宙のルールを実践しなければならない。
弱い立場のものを、どうやって幸せにするか--それは、人間にとっての永遠のテーマとも言える。
というのも、本来の生き物は「自然淘汰」で、状況に対応できないものが滅びることになっているが、人間は、理性と知性で、それを逆転させようとしているからだ。
宇宙は無重力だから、上下関係がない。人間の意識も、宇宙と繋がると上下関係ではなくなる。そのレベルを目指し続けているのが人類といえる。
魂に目覚めたら、人種差別や、障害者差別など、幻想に過ぎないとわかるはずなので。
「いじめ」という呼び方は、本来「弱いもの虐め」の略だと思うのだが、ここでは、校内恐喝・暴行事件を、現代の呼び方としてあえて「いじめ」と呼んで書くことにする。
いじめは、いじめる側に大きな問題があるわけだけだが、
じつは、いじめられる側にも理由がある、と言える。ここで、きちんとしておきたいのだが、いじめられる側に「非がある」と言っているのではなく、「理由(条件)がある」ということ。
いじめに遭う子どものほとんどが、攻撃力が弱かったり、闘争心がなかったり
優しかったり、性善説であったり
最初、いじめだと気づいていなかったり
他人との境界線が曖昧だったり
自分を守るために戦うことを、悪いことだと思っていたり
立場が弱かったり、ハンデがあったり(それを庇ってくれる大人がいない)、
逃げ道が少なかったり
効果的な相談相手がいなかったり、悪知恵がなかったり、情報が少なく、
時には、親から無視や虐待を受けていたり(虐めに慣れてしまっている)
エネルギーが下がっていたり
両親が揃っていない。両親が不仲で、子どもとの対話が少ない--などのどれか、
「人権を奪われないための戦い」に不利な条件が揃っていることが多いのだ。
ただし、最初から被害者意識のある子どもや、差別意識(人種差別・障害者差別ほか)がある場合は、因果応報のカルマで、引き寄せが起きているので、意識を変える気づきということになる。
他人との「境界線」を守ることができない場合も、人権侵害につながる。この場合の「境界線」とは、人間にとって最初の境界線は「皮膚」だそうだ。
だから、本人の承諾無しに、勝手に頭を撫でたり、腕を掴んだりしたら、境界線の侵略になる。
大人でも、人間関係は難しい時があるわけで、ましてや子どもたちも、さまざまな環境で育って来て、習ったこともない人間同士の付き合いを、試行錯誤している現状。
その時に、直接の被害が及ぶことがない限り、誰かを攻撃するというのは、間違った行動だと知っておく必要がある。
たとえ、相手がストレスのはけ口にちょうどいいと思っても、
たとえ相手が、まったくの無抵抗でも、
何かしら、気にくわない部分があっても、
不正をしたことがあっても(その場合は、正当な抗議をすればよいので)
たとえ、相手が「いじめてください」と土下座して頼んで来たとしても(笑)、
まだ子どものうちは、自分の裁量で責任の取れる範囲がせまいので、相手をいじめてはならない、ということを教育しなければならない。
ましてや、一方的に自分達が有利だという場合に、相手を攻撃するのは、野生動物のすることであって、人間としての誇りはない。
「直接の被害が及ぶことがない限り」と書いているのは、自分が殺されそうになっている時に、相手に対して攻撃的になるのは、生理反応だからということであって、暴力を奨励しているわけではない。
戦わなければならない時は、
・命にかかわることだと判っているとき
・心身の傷害にかかわること
・人としての誇りを失いそうなとき --である。
この時は、被害をもたらす相手に対して、抗議することが必要になる。その抗議の内容は、暴力ではなく、法律に訴えたり、協力者を募って話し合いをしたり、なるべくエレガントな方法が望ましいが。
自分が被害を受けているのに、それを抗議しないままにすると、宇宙に対して「私はないがしろにされて良いです。犠牲になります」宣言となり、それがオーダーされて、現実化が引き寄せられるので、注意してほしい。
一般的ないじめは、
エネルギーを奪うことに長けている生徒が、3人くらいつるむと、エネルギーを与えやすい(優しい)生徒を選んで攻撃する形になる。
クラスメイトの中には、愛と調和を求めて、問題を訴える生徒もいるが、そこで大人(教師)が適切な対応をしないと、いじめはさらに陰湿になっていく。
子どものいじめや仲間はずれは、大人が対応しないと、エスカレートする。なぜなら、大人が見て見ぬふりをすると、「許可された」というお墨付きをもらったことになるからだ。
大人になってしまうと、暴力を止めるには、もう警察権力が必要になる。
学生は、いじめ対応のエキスパートではないのだ。生徒が問題提議したら、大人が対処しないとならない。
いじめの原因となっていることは何か?を見出さなければならない。
子どものいじめに親が介入して相手を叱っても、悪化することが多いのは、いじめっ子は自分の親に気まずい思いをすると、さらにそのストレスをぶつけてくるから。学校という現場では親の手が届かないため。
親が出張って行く時には、教師・学校を巻き込んだ最終手段となる。
それまでは、公正な立場でいるはずの、教師の対応が大事になるが、いじめに適切な対応をしたという教師を、私は1人しか知らない。
そして、いじめる側には、強いストレスがあり、それを解消しなければ、いじめる相手を変えるだけになってしまう、ということも知っておくべき。
いじめを行っている人間(生徒)は、いつもストレスを抱えている。我慢している。本当は、自分は無力だと思っている。自己肯定感が低いのだ。それを隠して優等生を装っている場合も多い。
もともと頑張り屋さんで優等生で、そのぶんプレッシャーが強くなり、ストレスを溜めて弱い者にぶつけるという図式も、多く報告されている。
しかし、いずれにしても「ノルアドレナリン神経回路」優位で、怒りと恐れを抱えている。
優等生を装っていれば、褒めてもらえるし、自分が無力だという思いを誤摩化せるし、優等生の隠れ蓑で教師から疑われずにすむ。それが、さらなるストレスを生むという悪循環だとは気づかない。
一方で、いつも自分の思いどおりにしてもらい、甘やかされて来た子どもも、今度は思いどおりにならない時に、ストレスを感じて、八つ当たりをする。思いどおりにならないことを、エレガントに乗り越える工夫や、忍耐力がないということ。
「幼児的依存心」という。幼児的だから、残虐。
やりたいことができて、一見自由に見えるが、自分の力量以上のことを求めるので、要求が通らないときの挫折感が大きい。周囲への感謝がないので、じつは波動が低い状態。
忍耐力のない人間ほど、惨めなものはない。
大津の首謀者は、クラスメイトの死に対して、哀悼を示すどころか、自己正当化をしていたらしいので、それが本当なら、やはり罪悪感があるということだ。
それを汲んでやって、償わせることが、これからの人生を正しくするのだが、そんな大人は彼らの近くにはいなかったらしい。
子どものやんちゃは、度が過ぎた時には、すみやかに制止してやらないと、どんどん悪化していくのに。
あと、男の子は、自分の父親に褒めてもらいたい、認めてもらいたいという気持ちがあるので、それが叶えられない場合、問題行動を起こして「父親を呼んでいる」という。(「男の子ってどうしてこうなの?」参照)
心理学の研究で、「刑務官と囚人」という役割り分担をした実験の話は、けっこう知られていると思っていたが、情報というものは、いつでも再放送・再版しないと、すたれるようだ。
あの実験では、
人は、ストレスがあって道徳心がないと、圧倒的優位に立った時に、残虐非道なことを平気でできる。ということが実証されていた。
相手が無抵抗だと思うと、日頃のストレスを大いに発散して、残虐な行為ができるという。
つまり、人は、自分に返って来なければ、何でもできる--ということでもある。
これが、魂に目覚めている人間だと、あとは引き寄せオーダーで、調和した関係を構築できるので、残虐さを発揮する必要もない。
ドメスティック・バイオレンスなどでは、
暴行を加えた夫が、我に返ったとき、後悔して妻にやさしくするという。
そうすると、妻は「この人は、本当は優しい人なんだ。ストレスがあると、暴力を振るってしまうだけなんだ」と思うという。
幻想を破って申し訳ないが、ストレスがかかっている時に出るのが「本性」である。
じつは、時おり見せる後悔の念や優しさは、愛などではなく、保身だ。
「妻にも人権があるのに、申し訳ない」などと思っているのではなく、
「ああ、こんなことをしてしまって、恥ずかしい」だの「こんなことを知られたら困る」「妻に逃げられたら困る」だの「自分は何てやつなんだ」だの--
すべて「自分中心」の考え方。
「おれは頑張っているのだから、それを怒らせた奴が悪い。だから暴力をふるわれて当然だ。抵抗しないのは、自分が悪いと思っているからだ」などなど、都合の良いことを考えている。
ストレスに弱いのは本当で、それは脳の「ノルアドレナリン神経回路」ばかりが使われている人生だったからだ。本人が本気で反省しているなら、100日以上のサポートで「ドーパミン神経回路」を鍛えることができれば、その人本来の良い面を発揮して、幸せな人生に切り替えることはできる。
DVをしてしまうパートナーをサポートするなら、そこまでの対応をしないとならない。脳を「ドーパミン神経回路」に切り替える努力をせずに、「この人も子供の頃に苦労してきているんだから、許さなきゃ」と放置しておくと、それは「私はノルアドレナリン神経回路の人から不当に扱われます」オーダーとなって、またそれが引き寄せられるのだ。
私は、DVや、いじめに遭った人の対応をした時の体験から書いている。
法律に詳しいわけではないので、あくまでもカウンセラーとしての立場である。
いじめや虐待は、第三者が指摘しないと、当人たちには気がつかない場合が多い。
子どものいじめは、経験の少ない子ども同士だけの対処では、かなり難しいと知っておくべきだ。
悪意のないいたづらのつもりが、いじめや迫害につながることもある。大人の指摘や、適切な対処や、アドバイスがあることで、悪化を未然に防げるものなのだ。
むしろ…大人の中にある、差別意識が、子どもの世界で拡大されているともいえる。
ちなみに、大津の事件では、
「情報を隠蔽し続けた現場」によって、社会全体に、子どもたちが、いつ同じ目に遭わされるのか解らないという恐怖が走った。過去にも事件があったというから、今後も同じような虐待事件があった時、大人たちは、まったく対応しないだろうという予測がついてしまった。
それが、放射性廃棄物の処理問題と電力会社の無責任問題ともシンクロしていた。
おなじ、土壌。
それで、社会的現象が起きたといえる。
一部の人間は、昔から「あいつが犯罪者だ」とわかると「どんな目に遭わせても良い」と思っている場合もある。特に、「犯罪者なのに、反省していない」という時、「自分が正義だ」という立場になると、「相手を徹底的に責める」というのを続けているようだが、それは上記にあるように、心理学実験で証明された「圧倒的優位に立つ者が、抵抗できない者を虐待する」心理となる。
目的が、犯罪を防ぐことや、償わせること(等価交換)や、社会への警告の一環というのではなく、自己満足の場合は、要注意である。
どちらにしても、自分が同じ立場になった時に同じ対応をされても、笑顔で納得がいく場合は、自己責任として許可されているので、ここではとやかくは言わない。
重要なのは、いつでも「正確な情報」である。判断は、それぞれの立場による主観なので。
相手の人権を侵害したら、自分の人権も侵害されるのが「等価交換」のルールのはず。
ところが、相手の人権を奪った場合、奪った人には2倍の人権があるという矛盾(錯覚)が生じるらしい。今、そのバランス調整が起きている、そんな時代になっているようだ。
新聞で確認したところ、大津事件では、加害者の関係で間違った情報が流れ、それによって、何の落ち度もない一般人が加害者と間違われて、被害を被っているとのこと。それが、そのまま「いじめの構造」なのだと、気づくべきである。
--過ぎたるは、及ばざるがごとし--
正確な情報を掴めずに、踊らされるとしたら、それが本当の望みなのだろうか?
自分で確認をしない怠慢さは、いじめを放置した教師や教育関係者と同じ立場といえる。
自分の言動の責任は負わなければならないのだから、その加害者的言動は、オーダーされて、自らに戻ってくることになる。
実体験のある人が、過去を思い出して意見を述べることもあるが、ほとんどが一方的な視点であることが多く、場合によっては自分には無関係だからと、興味本位で話題にする人間もいる。
実際に効果的な行動のできない人は、口出しだけでもして、それによって社会参加したつもりになる、ということもある。
いじめといっても、
相手がこちらと仲良くしたいのにできなくて、攻撃的になっているなら、
誤解を解いて仲良くなるか
そんなやつは知らん、と他に自分の仲間をつくるか
仲の良いふりをして、知恵を使って逃れるか --などの方法がある。
相手が、嫉妬心でこちらを攻撃してきているときは、
敵意はないよという態度を取るか
相手の弱点を探し尽くして、攻撃準備をすると、それだけで、たいていは手を出さなくなる。
最近は、
たんなるストレスのはけ口で攻撃して来ている場合が多くなったらしい。
どちらにしても、逃れられない状況なら、立ち向かうしかないのだが…
・大人が対応できていない
・本人に戦う意志がない --という状況の時は、難しい。
引き寄せを知っていれば、どんどんオーダーすれば良いだけだが、学校では引き寄せの物理法則は教えていないのだから。
人間関係のヒントを言うと--
褒めてもらいたい・認めてもらいたい人は多く、
教師は、生徒の良いところを探して本気で褒める能力が必要だ--
目覚めていないと、難しいかもしれないが…
--と、記事を書いたら、いじめに遭ったことがあるという体験談のメールが来たが、冷静になれないなら、その波動がもともとの「自分は恐怖を味わう人生だ」という引き寄せになっている。
弱い者いじめに遭った人がもともと卑怯者だったのか、虐待にあったから卑怯者になったのか。どちらにしても、卑怯者でいていいということにはならないだろう。これは、自己責任の問題で、自分の人生を不幸なままにするのか?幸せにするのか?自分で選ぶべきことだからだ。
自分が幸せになる資格がないとか自信がないとか思うなら、それはセルフイメージ(自己肯定感)の問題なので、いじめ以前に親子関係を正した方が良い、ということになる。
私は、戦う意識のある人にしか対応できないから、具体的にどうしたいのかを質問されないと、応えられない。
仕返しがしたいなら、具体的に動くべきだし。
こういう記事を書いて、波動の低い人を呼び込みそうなら、記事は今後削除する。
一見、差別の被害にあって、可哀想でしょう?と見える人が、実は他のことでだれかを差別していて、差別意識の塊だったりする。それは、引き寄せが起きて、自分自身が鏡を呼び込んでいる。
被害者意識が強すぎる場合は、「夜と霧」症候群といえる。
つまり、「自分は酷い目に遭ったことがあるから、誰かを犠牲にしてもいいんだ」という考え。これこそが、いじめる側、加害者側の人間の意識。エネルギー泥棒だ。
被害者から、加害者になるのは自由選択だけれど、私個人の意見を言わせてもらうと、とにかく「最後は幸せになりなさい」ということだ。
不幸なままで過ごすのは、加害者の勝利になってしまうから。それが魂の本当の望みかどうか、確認してほしい。
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私は、24時間対応ではないので、いじめや事件に遭って自殺しようとしている人に対応しきれない場合があるため、安易に「すぐにうちに連絡してね」というコメントはしません。
もし、そんなことを言ったら、実際にいじめに遭っている子どもたちだけでなく、ひやかしやエネルギー欲しさに、被害者を装った連絡が来るのが目に見えているので。
でも、事件になるときは、それぞれに個別の対応が必要だということは知っています。
だから、総まとめの「いじめられている君たちへ」メッセージも書きません。
あくまでも、分析と経験・体験の報告になります。ネットに流せば、少しでも人目につくので、情報を必要としている人に届くように…と意図しています。
いじめや虐待に対応したい場合の過去の参考記事--
「いじめられる人は、自分への愛が足りない」不動明王からのメッセージ
http://leoriel.blog105.fc2.com/blog-entry-427.html
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